誰かの思い出の場所で
EPISODE 01 · 音楽と言葉の48分 YouTubeで聴く
同じ料理でも、誰と食べたか、どこで過ごしたかで、思い出は違って見える。食事の記憶を入り口に、過ぎた時間と、いま目の前にあることを眺める回です。

10曲の音楽と短い日本語の語りをつないだ番組です。YouTubeで公開中です。
番組の流れ
時刻は番組内の目安です。現在は各章へ再生移動するリンクではありません。
この回の曲目
- 01 開いた扉
- 02 席を選ぶ
- 03 一つ通り過ぎる
- 04 同じ料理、別の時間
- 05 並べきれないもの
- 06 今の行為へ
- 07 食事の続き
- 08 思い出と呼ぶ前に
- 09 結論を待つあいだ
- 10 今日の席に戻る
ZENRITHM|誰かの思い出の場所で
教えを求めたら、食器洗いを頼まれた。
教えを請いに来た僧に、老師が食事を済ませたか尋ねる。済ませたと答えると、器を洗うように告げる。
それだけなら、食後の片づけの話だ。ところが『無門関』の「趙州洗鉢」は、そこで僧に気づきがあったと記す。洗い終えた場面は書かれていない。器を磨いて心まですっきりした、という話にはなっていないのだ。
では、僧は何に気づいたのだろう。
特別な教えを探すより、目の前のことをする。そんなふうにも読める。けれど、食器洗いの心得で読み終えるには、少し引っかかる。なぜ、老師はただ片づけを促しただけで、僧は何かを悟ったのか。
奥村正博の注解には、面白い別の読みが紹介されている。この僧を、修行を始めたばかりの人ではなく、すでに経験を積んだ人と見る。そして「食事を済ませたか」を、悟りを得たかという問いとして読む。
そうすると、返事の意味が変わる。僧は、すでに得たものがあると答えている。その僧に向かって、さらに器を洗えと言う。洗い落とすのは、食べ物の跡だけではなく、悟ったという跡でもある、という解釈だ。
この読み方なら、老師のひと言は「まず基本を覚えなさい」から、ずっと先へ進む。「わかった」と思えたあとにも、まだ手放すものがある。
最初は、新入りに出された用事のように見えた。同じやり取りが、今度は経験者への厳しいひと言に見えてくる。僧をどんな人だと思って読むかで、洗う器まで違って見える。
食べ終えた器に、何が残っていたのか。
食べかすを思い浮かべるか、「自分はもうわかっている」という手応えを思い浮かべるか。それだけで、この短い問答はもう一度読める。
- 番組づくりについて
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語りは短く、音楽の流れを大切に。聴きながら、自分のペースで過ごせる番組を目指しています。